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同じ時事ネタを目にしていても…

ある時事クイズの正解者がゼロだったからといって、解答者がその時事をチェックしていなかったとは限らない。正解を答えられるほど記憶に刻んではいなかったが、見覚えならあるという場合も多い。

日々生産される、クイズ的には無意味なネタも大量に含んだ膨大な情報の中から、適当に見つけた時事ネタをピックアップして、それをクイズに加工して出題して、「意外に正解者が少ない」とか言う人がいるが、そんなこと言われたって、他にもチェックしなきゃいけないネタがいっぱいあるんだもん、しょうがないじゃん、あなたとは違うんです、というのが、解答する側の認識だ。

よく見聞きするが、詳しい内容は知られていない事柄について、一歩突っ込んだ内容を問う事が、クイズ界では良い事のように語られているが、出会う情報の全てに立ち止まってはいられないのだから、恣意的にピックアップされた深い知識とやらを知らない・覚えていないというのは仕方のないことだ。

人は、同じ情報源に触れていても、注目するネタはそれぞれ異なる。クイズプレイヤーとてそれは同じ。
ある1つのネタに同じ頻度で触れていても、初期にそのネタに注意を払うかどうかによって記憶の定着度は全然違ってくる。

以下、図解してみる。

ある1カ月間、全く同じ新聞とニュースサイトを読んでいる2人の人物、「Xさん」と「Yさん」がいると仮定する。

クイズで重要そうなある1つの時事ネタを「A」とする。
その他もろもろの情報は「■」で表す。
時の流れは、→(左から右)。つまり、右端が1カ月後。

【Xさん】
A■■■■■■■A■■■■■■■■■A■■A■■■■■■■A■■■■A■■■■■■■■■■■■A■■■A■■■

【Yさん】
■A■■■■■■■A■■■■■■■■■A■■A■■■■■■■A■■■■A■■■■■■■■■■■■A■■■A■■■

早い段階でAに着目したXさんは、その後、何度も目にすることになるAを誰もが知っているベタだと思い込むようになる。

Yさんも、Xさんと同じ頃にAについての記事を初めて読んだが、特に興味を持つことはなく、そのまま読み流してしまった((※読んだ直後は記憶に残っている)。以後、Yさんは、Aを一度や二度ほど目にしたくらいでは、Aについての記憶は定着しない。何回も目にして、やっと、そういえば、Aってのがあるなあ、と思うようになる。

このように、XさんとYさんはAという情報を同じ頻度で触れているが、Aについての認識は大きく違うのである。

というわけで、出題者が「簡単な時事問題なのに意外と正解者が少ない」と思ってしまうのは錯覚である場合も多いのである。

余談。
以上のことは時事以外にも当てはまる。
ある人が問題集でしょっちゅう見ると言っていても、別の人にとっては「そうか?」と思うような“ベタ”も往々にしてある。

〈早押し〉必ずしも最重要情報を盛り込まなくてもよい。

まずは、適当に早押しクイズの例題を一つ。

【問題】黒澤明監督の映画『夢』ではマーティン・スコセッシによって演じられた、有名な画家は誰?

【答え】フィンセント・ファン・ゴッホ / ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

そういえば、昔の某クイズ番組で、「フランス語では「ゴーグ」、オランダ語では「ホッホ」と呼ばれる画家は? 答:ゴッホ」(※記憶のみを頼りに再現)という問題が出てたなあ。

画家ゴッホについて、誰もが知っていることといえば、代表作『ひまわり』あたりだろうか。
あと、ポール・ゴーギャンとの交流とか、自らの耳たぶを切り落としたこととかが、比較的よく知られているだろう。

で、上記のゴッホが答えのクイズには、問題文に『ひまわり』も「ゴーギャン」も含まれていないのだが、そのことについてイチャモンをつける人はあまりいないだろう。まあ、「『ひまわり』とか言ってくれたら分かったのにぃ」とか言う人はいるかもしれないが。

クイズは原則として問題文の情報のみから答えを導き出すものである。

上記のクイズは、「ゴッホを知っているか」ではなく、「ゴッホに付随する情報を知っているか」を趣旨としている。問題文に『ひまわり』を入れてしまったら、出題のねらいが変わってしまう。

さて、本題に入ろう。

「長文クイズ」にまつわる錯覚の一つに、答えに関する重要な情報を問題文中に入れなければならないというのがある。

そこそこ有名人の人名が答えとなっている長文クイズで、その人物についての最重要事項が問題文から抜けていた場合、つっこまれるのは必至だ。
しかし、上記の例題からも解るように、短文クイズなら言及しなくていい「重要な情報」を、長文クイズでは必ず言及しなければいけないというのは、考え方としておかしいと言わざるをえない。クイズ界の人々はみんなこのことに気がついていない。

長文クイズで、「答えの人物」を知っているかを問いたい問題であれば、その人物についての重要な情報を問題文中に入れるべきなのかもしれない。
でも、その一方で、必ずしも重要とはいえない限られた情報をいくつか並べて、その内容から人物名を導き出すというタイプの「長文」問題があったっていいではないか。

昔、誰かが「最近のクイズは、人名事典の説明文みたいな問題が多くてつまらない」と言っていた。問題文にメジャー(重要)な情報を盛り込まなければならないという縛りがある限り、それは仕方のないことだ。

早押しについて | キーワードあっての助詞

Q.

【2960】6月6日に放送された日テレのバラエティー番組「超頭脳トレード」の中で、字幕表記で「故人」として紹介されてしまった、かつてプロ野球、東映フライヤーズの投手だったという経歴を持つ、現在80歳の俳優は誰?

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普通の読書家は名数・多答を全部言えない。

クイズプレイヤーと、一般の博識な読書家とは、似て非なるものである。
どちらも豊富な知識の持ち主と言えるのであろうが、持ち合わせている知識の傾向は異なる。
両者の違いをものすごく単純に表現すれば、「覚えている人」と「知っている人」となるだろう。

「競技クイズ」未経験の物知りな人が、クイズの「オープン大会」にチャレンジしたところで、“玉砕”するのが関の山だ。知識のアウトプットには慣れが必要なのである。

クイズプレイヤーとそうでない人とで、とりわけ差がつくのは「多答クイズ」だ。

いくら本をたくさん読んでいても、よほど入れ込んだジャンルでもない限り、名数を全部言えるようにはなりにくい。

「知る喜び」で自然に身につく知識も多いが、「多答」(特に答えの数が多いもの)はそうではない。
暗記作業をしなければ多答の全部を言えるようにはならない。

問題と答えが「一対一対応」のクイズは薄っぺらく、全体を分かっているうえで答えを導き出すタイプのクイズの方がなんとなく上級のような印象があるが、博学な読書家と親和性が高いのはむしろ前者だ。
後者はクイズ用の勉強をしないと対応できない。

幅広い知識の持ち主は、必ずしも多答を全部言えるタイプの人ではないのだ。

知らないことを知る、これぞクイズの醍醐味、というのは、クイズのほんの一面にすぎない。少なくとも多答にはあまり当てはまらない。

《余談1》
クイズ界には問題作成能力に長けているのにプレイヤーとしての成績が芳しくない人がいるが、そういう人は「クイズ」では測れない物知りなのであろう。

《余談2》
実を言うと、クイズ界では多答好きは少数派なのではないか。なんとなくそんな気がする。クイズプレイヤーといえば、名数を全部答えられる人というイメージがありそうだが、実際はそうでもない。

そのときクイズはひとつの死を迎える。

よほど特別なことがない限り、プロ野球チームとそこらへんの草野球チームが対戦することはない。

プロの将棋棋士がそこらへんのオッサンと平手で戦うことはない。

TBS系「オールスター感謝祭」の赤坂5丁目ミニマラソンはハンデ有りだ。

競技クイズが普通の競技と異なる点は、一部例外を除いて、どんなに実力に差があっても同じ土俵で対戦することだ。
クイズのオープン大会に批判は付き物だが、元を突き詰めて考えればだいたいそこに行き着く。

ガチでクイズをやってる人と、軽い趣味の一つとして気楽にクイズに嗜んでいる人、クイズ初心者が区別なしに対戦するのは無理があるのだ。

では、実力別にすればよいのだろうか。
実はそれにも問題はある。何を以て実力とするかの問題だ。

ある一つの大会で活躍したからといって、違う傾向でも強いとは限らない。
競技クイズは、ルールは明快でも、内容の基準は明確ではない。

ではクイズを、野球やサッカー、囲碁将棋、競技かるたのように、ルール等を整理してカッチリしたものにしたらどうなるのだろうか。
もしそれが完了したならば、それは本来のクイズからはかけ離れたものになるだろう。
既にそうではあるが、博識な人を称賛するような牧歌的なものではなくなり、よく言われる「競技かるた」的なゲームと化するだろう。

様々な自分基準を持ち、実力・得意分野も千差万別な人々が一堂に会するクイズ界が、そのコミュニティを保てているのは、クイズ特有のユルさの賜物である。

もしクイズが「競技」として整理・体系化されたならば、昔の意味でのクイズはひとつの死を迎える。

余談。
そもそもクイズは勝負事でなくてもいいのではないか。
誰かが作った問題を、誰かが答える、ただそれだけ、というのも当然「クイズ」だ。
勿論、たくさん正解した人がエラい、というのも否定すべきではない。

そもそもクイズ番組に笑いはいらない。

ヤフーニュースで次の記事を見かけた。

<素人と玄人の「笑い」の違い>なぜ最近のクイズ番組には「素人」が出なくなったのか?

今の地上波では考えられないが、かつて、テレビのゴールデンタイムのクイズ番組に素人(←イヤな言い方だから、以下、主に「一般人」と書きます)が出まくっていた時代があった。(海外なら今でも視聴者参加型のクイズ番組が主流だろうけど)

『アップダウンクイズ』や『クイズグランプリ』はもとより、『世界一周双六ゲーム』みたいな番組までもが視聴者参加型のクイズ番組だったのだ。
『クイズ 100人に聞きました』なんか、全員一般人の家族が出場していたのだ。

今回取り上げた記事で気になったのは、笑えないクイズ番組を面白くないと捉えていることだ。
クイズ番組って、笑いが必要なものだったのか? 大喜利と勘違いしてるのか。

クイズは、正解しようと思って答えるのが原則だ。
わからない問題でも、なんとか正解したいと思って答える。
珍答で笑いが起きるのはあくまでオマケだ。

《記事から引用》

「良い素人」の第一条件は「自分を面白いとは思っていない人」である。自分から、これ面白いでしょ? と「ネタを言いに来る」つまり出しゃばってくる素人は出演することがない。
こうして選んだ素人は時として爆発的な笑いを生む。

笑える回答をしてくれる素人が欲しい。でも、「出しゃばってくる素人」は要らない。素人は余計な計算をするなってことだね。天然ボケ大歓迎。それ以外の一般人はテレビに出させてやんない。一般視聴者も随分見下されたものだ。

笑いを狙っていないのに面白い、笑いを狙っていないからこそ面白い、というのをたまに聞くが、真面目に答えている人を嗤うのは失礼ではないのか。
芸能人はともかく、一般人は自分の珍答を嗤われたら、いい気はしないだろう。
まあ、「ご長寿早押しクイズ」の出場者は気軽に回答してるだろうけど。(※でも昔、どこかの記事で、「ご長寿早押しクイズ」に出場したことがある人が「編集で、変な答えを言っているところだけ放送された」と怒ってた、というのを読んだことがある)

クイズ番組に限らず日本の地上波の番組は、笑いや盛り上がりを重視しすぎる。とにかくうるさい。

素人が出なくなったのには様々な理由がある。
一つは素人が出ても面白くないからである。

この「面白くない」は、「笑えない」とするのがより正確だ。

もう一つ大きな理由は、経済的合理性である。テレビに出演可能なレベルの素人を見つけるには、膨大な人と費用と手間がかかる。

笑いなんぞ求めるから、「膨大な人と費用と手間がかかる」のだ。

経済的合理性を考慮するんだったら、むしろ一般人をテレビに出した方がいいよ。
テレビに出られるんなら、お金を払ってでも出たいと思っている一般人は山ほどいる。

えっ、それじゃあ、視聴率が取れないって?
芸人偏重の今だって、たいして視聴率取れてないじゃん。

笑えない番組でも面白い場合があることにそろそろ気付こう。

素人いじりなんて大きなお世話。へりくだれとまでは言わないから、普通に接してくれ。

《余談》
往年の『アメリカ横断ウルトラクイズ』、今の地上波では絶対にあんな内容にはできないね。面接も無しでマルバツで選別した一般人をそのまま出してるんだもん。それから、ジャンケン三本勝負。今なら考えられないね。だって、ジャンケンだと、テレビ向きのキャラの人が負けて、テレビ的にはショボい人(失礼)が勝つことだってあるんだから。というわけで、現状ではウルトラクイズの復活はありません。

必ずしも問題文に最も有名な事実を盛り込む必要はない

早押しクイズで人物名が答えの問題を出して、スルーになったとする。

そして正解を発表した時、「えーっ! それだったら知ってた」という反応がある場合がある。

問題文にその人物に関する重要事項が欠けていたということなのだ。

では、早押しクイズでは、問題文中にその答えに関する最も有名な、あるいは重要な事柄を入れておかなければいけないのであろうか。

必ずしもそうではない。

クイズは問題文の情報から正解を導き出すゲームだ。

問題文に盛り込んだ内容が正解を一つに限定するものであれば、それでいい。

問題文を答えの単語の要約にする必要はない。

結論を言おう。
問題文に、答えについての最重要事項を盛り込まなければいけない気になってしまうのは、「長文」クイズが定着したことによる錯覚なのだ。

人物名が答えの「短文」クイズを見てみよう。
この人物ならこれは外せないという内容を全部盛り込もうとうすると、おかしくなることがすぐにわかるはず。そもそも無理な場合も多い。

長文問題はどのようにして誕生したか

「長文」クイズの黎明期の状況をリアルタイムで体験している世代は、もう「クイズ界」ではかなり少なくなっているだろう。
その時代を肌で知っているクイズ屋でも、長文クイズ(※以下、「長文」)がどのように生まれ、どう進化していったかについては記憶がおぼろげになっているはずだ。

長文は、ある日突然誕生したわけではない。
前フリを付けたクイズが流行り出してから、徐々に徐々に問題文が長くなっていったのだ。

そもそも、「長文クイズ」「長文問題」という言葉は、長文が定着してから言われ始めたものだ。それまでは「問題文が長い」などと言われていた。

さて、これは想像だが、今の若いクイズ屋は、長文がどのように生まれたのかについて、最初は前フリ1つの問題が主流になり、その後、前フリを2つ以上付けることが発明され、そして今日の「前フリ、中フリ、後ゲン」になったと思っている人が多いのではなかろうか。
もちろん、これはこれで、違っているとはいえない。
ただ、長文ムーブメントの前夜は、その流れが一筋だけではなかったので、長文には、また別のルーツともいうべき動きがあったのだ。

何が言いたいのかというと、長文の主な起源は、20年ちょっと前に流行った「エピソードを問題文に盛り込むクイズ(※答えは人名)」だったのではないかということだ。

人物のエピソードを「フリ」にすると、短文(※レトロニムですね)とは呼びにくい問題が出来上がる場合が多くなる。
更にフリを追加するようになると、それはもう長文だ。

そして月日は流れ、いつしか、三段構えの「前フリ、中フリ、後ゲン」という概念が生まれた。
長文における三段構えを基本とする考えは、案外、後になって出てきたものなのである。

「小学校のマラソン」は強制参加なのが問題

2月6日にテレビ朝日系で放送された「世界が驚いた日本!スゴ~イデスネ!!視察団 2時間スペシャル」についてのニュース記事がありました。

視察に来た、フィンランドの小学校の校長が、日本での学校行事に驚き、がっかりしたという内容です。

↓ ↓ ↓

小学校のマラソン大会でなぜ順位をつける? 海外の校長が異議唱える

記事によりますと、順位といっても、「1位から数名まで賞状を用意」なんですね。
ビリまで全員順位を付けるわけではないから、そんな驚くことではありませんね。
昔の日本の学校では、中間期末テストの得点の順位を1位から最下位まで実名で貼りだしていたって、聞いたことあります。
それと比べたらましですね。

順位付け云々以前に、学校の行事で問題なのは、全員強制参加なことです。
運動会なんか、嫌で嫌でしょうがないという子供が、潜在的に山ほどいますよ。
運動会や遠足は参加・不参加自由にすればいいのにね。

フィンランドの校長は

運動はそもそも良いことなのに、子どもたちを競わせることで運動が得意じゃない子はビリという烙印が押されてしまう

と言っていますが、競わせる、競わせない以前に、不参加もアリにすべきでしょう。

マラソン大会だと、順位付けしなくても、ビリの子供は自分がビリだと分かりますからね。芸術等の優劣とはわけが違います。

《余談》
クイズは、競技という側面が強く、早くボタンを押した人、たくさん答えた人がエラいみたいになっていますが、趣味の一つと考えれば、競わずに、「ゆる~く、誰かの問いにテキトーに誰かが答えて、わーい」というのもアリかもしれませんね。
優勝者を決めなくてもいいというのも一つの選択肢です。

不毛な「クイズ論」合戦は、仕方ない面もあります。
「競技」である以上、パターン化は必然ですから。